その痺れを覚えてろ


その痺れを覚えてろ


昼寝から目覚めると無性に喉が渇いたので、起きぬけにまずキッチンへ向かった。

扉を開けながら、くあぁと大きな欠伸をひとつすると
新鮮な酸素といっしょに紅茶の香りが鼻をくすぐった。
調理台の内側では、コックが立ったままカップの中身を呷っている。
茶葉がどうこうなんてのは俺にはわからないが、煙草の匂いよりは健康的なぶん幾分マシだな、と思う。

「おぅ」

間の悪い沈黙を打ち破る正しい台詞を知らないので、いつも通り意味のない呼びかけでお茶を濁す。
コックはコックでそれをわかっているから、カップに口をつけたままうっとおしそうにこっちへ視線を投げかけるだけだ。

「つまみ食いか?」
「ハッ。コックがキッチンで紅茶飲んでなんでつまみ食いだよ。
 マリモにはとうてい理解できない優雅なティータイムの残り火だ。」
「…ナミもロビンも外にいたぞ。」
「男にはごくたまに一人で飲みたい時があるんだよ」
「いつもだろ」
「ごくたまに、だクソマリモ」

常より饒舌なのは、まだ脳が完全に覚醒していないからか。
小さく噛み殺した欠伸を目敏く見つけ、コックはダーツまゆげをぐにゃりと歪ませる。

「今の今まで外でグースカと。いいご身分だなオイ。」
「優雅な何とかはどこ行ったんだよ。…まぁ立って茶ぁ呷ってる時点で終いか。」
「へぇ意外だな、マリモのくせに人間のテーブルマナーをかじってんのか。」

打てば響くというか何というか。
この言葉、使い方はこうであってたんだっけか。
愚にもつかないことを考えて、ガシガシと頭を掻きむしる。畜生、余計に喉が渇く。
不機嫌そうにドッカと腰を下ろした俺を見て満足したのか、コックはついでのように何の用だと俺に問うた。

「喉が渇いた。」
「酒は出さねぇぞ」
「…チッ」
「クソテメー料理長に舌打ちとはいい度胸じゃねぇかこの緑アル中!
 …そして残念だったな、たった今極上の一杯も最後の一滴まで飲み干したとこだ。」

コックはわざとらしく俺の前でカップをさかさにしてみせる。
何も喉を潤すために手間のかかるものを所望したつもりはないし、水も紅茶も大して変わらねぇ、と思ったが、
ここはグッとこらえて口をつぐんだ。

「…水でいい。水で」

なんでいつもテメーは偉そうなんだとコックはブツブツ言いながら食器棚に向かう。
俺の知ったことじゃねぇよと呟いて返しながらテーブルに視線を戻すと、そこには、まだ洗われていないカップがひとつ残っていた。
それは妙にボロボロで、台所に関してはうるさいアイツの趣味じゃねぇよなと気に止まる。

「なんだ、これ。捨てんのか?」

リクエスト通り、コップになみなみと水を注いできたコックは
片手にそれを持ったまま、俺の後ろで俺の言葉を聞いていた。

「…いや、ブルックのだ。」
「一人で飲みたかったんじゃねぇのか」
「ティータイムのはじめはアイツもいたんだよ。
 二杯飲んだとこでアイツは外に行った。どっちにしろ侘しいもんだ。」

ガツッ、と少しも行儀のよくない音を立ててコップが目の前に置かれる。
衝撃で零れた水が左手にかかったがそれよりも、
さっきと同じはずの軽口がさっきよりも重たい声色で話されたことの方が気になった。

「さっきまでここにいたのか?」
「いや、まだ日が高ぇうちに出てったよ」

小さな丸窓から入ってくる陽光は、既に夕刻を告げる紅みを帯びている。
ならばコックは、随分と時間をかけてティータイムの残り火を消火したもんだ。

「これで飲んでたのか?ブルックは。」
「……いや、それでは飲ませなかった。」

明らかな重さを含んだ言葉。
水分摂取を邪魔されている喉が、その瞬間にヒリリと痛んだ。

コックはそれで終わらせようと、言葉を終えて閉じた口のまま踵を返そうとした。
続きがあるのはわかっている。中途半端に言いたいとこだけ言い逃げられるのは癪だ。
どういう意味だと低い声を出して、睨みつければ
コックは、二秒ガンを飛ばし返してから煙草をくわえた。
話す気になったらしい。やっと、水に一口目をつける。


「そのカップは、アイツがアイツの船から持って来たんだ」

まだ長い煙草から、真っ直ぐに煙が立ちのぼる。
コック自身の口からも、言葉といっしょに匂いの強い煙が逃げてくる。

「アイツが船にいたときには、なんでもそれで飲んでたんだと。」
「へぇ。だからこんなにボロいのか」
「…ボロボロだから、それで、飲んでたんだ。」

煙草で口を塞いで思いきり吸い込み、
アイツは一息で煙草を灰にするような勢いで煙を吐き出し、ダイニングを人工的な靄でかすませた。
それはまるで役者が肝の台詞を喋り出す間を探っているようで、俺はコックの眼の中の闇ばかり見ていた。

「独り、だっただろ」
「?」
「アイツはあの魔の海で、仲間を失って独りだった。
 だから幸せだった昔を思い出す。生きていく希望を探りたくて。思い出して、思い出して
 …そうしてわけがわからなくなっちまうらしい。どっちが現実なのか夢なのか。
 そんなときあのカップで茶を飲めば、」
「こっちが、現実だと気付くのか」
「ひびに、剥き出しの歯がひっかかってな。この悲しい感触が、独りである自分が」

本当なのだ、と。


コックは大袈裟に身振り手振りをつけて話した。
まるで役者のような身のこなしは、きっと真実を話しているからだ。

人は、本当に哀しい時、涙を流さない。
人は、本当に怒った時、声を荒げない。
だからコイツがまるで芝居のように話す時、それは本当のことなのだ。
ブルックにとって、本当の本当のことなのだ。

あえて、そのボロボロのカップに手を延ばした。
取っ手に指をかけ、引き寄せる。
ヒョイと持ち上げて見れば確かに口を寄せるであろう部分が欠けていた。
小さな小さな二等辺三角形の隙間。
これが、ブルックの 。


「だから、アイツは今でもこれで茶を飲むんだと」
「…だから?」

片眉がピクリと上がったのが自分でもわかった。
自分が頭の良い方だとの自覚は無いが、その接続詞の意味がわからない。

「ブルックはもうこの船に乗ってるじゃねぇか」
「んなこたわかってるよ。でもあのガイコツは確かにそう言ったんだ。」

荒く、白い靄がまた広がる。
随分乱暴な早さで灰にされた一本は、涙を落とすようにその身を散らせた。

「昔の船が懐かしいってんならそれはそれで構わねぇし、」
「…」
「昔の自分を笑いたいならそれだって別に止めねぇさ」
「…」
「けど、ブルックはどっちにも頷かなかった。いや、どっちかに頷こうとしやがった。
 そっちの嘘の方が気楽だから」
「……」
「アイツは、自分を戒めてるんだ。」

この幸せに、慣れてはいけないと。

またいつか、独りになってしまった時にせめて少しでも、

「…痛くねぇように、か?」

コックは、小さく頷いた。
頭でぐるりと一周考えてから放った言葉は決して理解しやすい親切なものではなかったし、そもそも呟く声も小さかった。
それでも、コックは頷いたのだ。



バン、と机を叩いて立ち上がった。
コップの中に半分くらい残っていた水が暴れて波打つ。
ピリピリと神経が逆立っている。何にこんなに煽られているのかは上手く説明できないが。
ただ、ブルックに会わなければいけないと思った。



甲板に出て、首を45度程動かしたところで目的の奴を見つけた。
さっきまで騒がしかったであろう船上も今は静かで、それはきっと船長以下お子様連中が俺とは入れ違いにキッチンに向かったからだろう。
そう言えばそろそろ夕餉の支度が始まる頃だ。

外は海も空ももちろん船も太陽の茜色で染められていて、
目指す男も他聞に漏れず、まるで夕焼けを羽織っているようだった。
長い足を一本は畳み、一本は投げ出して座り混んでいる。
何を考えているのか、顔は下に向け自分の足の甲あたりを見つめていた。
それを見て、気持ちが逸る。何故かわからないが、急がなければ、と思った。


「あ、あれ?ゾロさん。お目覚めですか?」

気配を消したつもりはないが、ブルックは俺がすぐ近くに寄るまで気付かなかった。
アイツは俺が横にいたことに驚き、そしてさらにもう一段上の驚きで目を大きく見開いた…といったところだろう。
瞳があればの話だが。

「ゾロさん?ど、どうしたんですか?」

ブルックの視線は、スラリと抜かれた俺の、銀の刃に。
片手で構え、このまま振り上げれば奴の左腕が、落ちる。

「抜け、ブルック。」
「はい?」
「手合わせだ。付き合え」

未だ意味がわからないといった風に首を傾げるのでカチャリと刃の向きを変えると、
ブルックがあたふたと立ち上がった。
そんな挙動じゃ、どう見たって腕の立つ剣士には見えないのだが。

どうしたんですかこんな突然、と
俺の機嫌をこれ以上損ねないためにかいつもより小さな声で呟きながらも、アイツはスラリと得物を抜いた。
真っ白で、孤独な刃。
そこだけまるで夕焼けを跳ね返してしまっているような。
そんなに、白く、儚い。
考えも蹴り捨ててしまいたいとでも思ったのか、明らかに力の入ったステップでブルックとの間を詰める。
その余計な勢いの分だけテンポを崩されたブルックは、
いつもより深い所で刀を受け、ギリと鳴いた刃の分だけ構えを乱した。
零コンマ一秒の真剣さを飲み込んで、まだ理由を問いたいというようにブルックの口が開きかける
が、そんな隙を与える間も無く俺は収めていたもう一本も抜き放ってアイツの刃を揺らした。

一撃、二撃、もう一撃。
時折バイオリンの上で踊るあいつの剣は
その時まるで脳を内側から蕩かすような優しい音を奏でるが、
果たして今は、響かせるのは明らかに野性の、本来の鋼の音だ。
ギン、ギン、と斬撃の度に鳴く固い音は、俺の腹の底から何かを持ち上げる。


いつも受けるより荒い剣捌きに、ブルックはあたふたと左手を振り、
ちょちょちょっとゾロさんどうしたんですかなんかいつもより手厳しいですよと
ふざけたように上擦った声で訴えながら、
それでもアイツの白刃で俺の二つの刀をどうにか弾いていた。

アイツはたまにふざけたようにあなたは素晴らしくお強い剣士だと俺を褒め、
とんでもなく真剣な顔であなたはいずれ大剣豪になるんでしょうねと感嘆する。

けれど、中途半端な奴が俺の刀を返せるわけがない。

アイツの演奏は、嫌いじゃない。
音楽なんて高尚なもんのことはよくわからないが、ブルックの指が、バイオリンが奏でる音は
特別に自分の耳に心地よい気がして
気に入っているのだろう、とは思う。

それでも俺はアイツのことを、剣士だと思っている。


ギン、ギンと
火花散る鋼の歌はまだ響く。
うっすらとブルックの息が上がっているが、俺はまだ止めない。


刀を合わせていればわかる。
アイツが自分の言葉程弱い男でないことも、
そして俺のことを本当に讃えてくれているのだということも。
言葉で伝えあったわけではない。むしろ、言葉で伝える必要が無い。
俺たちは同じ剣士なのだから。
仲間になって、初めて感じたこの感覚が
きっと俺は気に入っていて、心地よくて

単純に、嬉しかったのに。


「浮かれてたのは、俺だけか」


漏れた言葉は思っていたより力無くて、ブルックに届いたかどうかもわからない。

想像もつかないような暗い暗い孤独の中から
アイツはようやく逃げてきたはずなのに。
アイツは今を喜ぶよりも、昔を憐れむよりも先に、
未来を憂いてしまうのだ。

あぁ、ちくしょう。それじゃあ何も変えられていないじゃねぇか。


握った刀に力をこめる。
ならば俺が、なんてそんな思いは傲慢なのだろうか。
わからないがとりあえず、アイツが下を向いて立ち止っているのは我慢ならなかった。

「あっ…!」

思い切り振りぬいた秋水が、合わせていたブルックの刀を払い距離を放す。
怯んだブルックが一歩後ろに下がる。その、一歩。
できた隙に詰め寄って、一撃。
ガキンと、特別高い音が響いて

アイツの刀が弾け飛ぶ。


くるくると回りながら飛んだ剣は、甲板に落ちてカランカランと乾いた音を立てた。
得物を奪われたブルックは、俺の動きを窺っていたが
刀を収めたのを見るとホッとしたように「参りました」と呟いた。
左手が右手を庇うように添えられている。
力ずくで弾かれる直前まで剣を握っていた指は、衝撃に痺れてしまったはずだ。


「ブルック。恐がることねぇだろうが。
 お前はもう、この船に乗ったんだ」

剣を拾いに行ったアイツの足が止まる。

「それでもまだ駄目だってんなら
 その腕の痺れだけ、覚えてろ」


もう、独りじゃない。
手合わせをできる人間くらいは、側にいるんだ。
それだけ覚えていればいい。


アイツは、そう言った俺をしばらく見つめて
それから視線を右手へと落とした。
まだ小刻みに震える指を、ブルックは左手で優しく包んで
胸の前で握りしめる。
そのまま、心臓の位置に刻んじまえばいい。
一生忘れなくていいように。



ありがとうございます、と
ブルックは小さな声で言った。
それだけ聞いて俺は背中を向ける。
早く、夕飯の支度が終わればいい。
さっさと飯を食って、さっさと風呂に入って、さっさと寝てしまって
早く朝を迎えたい。
今日の夕日はまるで血の色で、そのどぎつい赤はブルックから白の色を奪ってしまっている。
できればもう何も、アイツからアイツのものを遠ざけないで欲しかった。

せめて、早く、幸せになれ。



PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル